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歴史とは有り難いものです。忘れられている日本の歴史をもう一度考えてみましょう。

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平安時代とは? 

平安時代とは桓武天皇が平安京へ行った794年から、源頼朝が鎌倉幕府を開く1192年までの約400年間を言います。華やかな時代というイメージがありますが、それはほんの一握り。貴族だけが歌を詠んだり蹴鞠をしたりと贅沢な暮らしをしていましたが、お百姓さんたちは大変でした。

イイトコのお嬢さんの化粧品代だけで、何百人もの農民が生きることのできた時代なのです。そして貴族を取り巻くのは藤原氏。平安時代は藤原氏の最盛期を迎えるのです。


794年 鳴くようぐいす平安京♪

桓武天皇は、早良皇子の怨霊を怖がり794年に平安京を作ることに。平安京は結界を取り入れた構築で、早良の怨霊が来ないように建てられました。長岡京の後釜のわりには、日本で一番長く使われたお城で1000年くらい使われます。

以後、京都の市街地を「洛中」。周辺地域を「洛外」。京都に行くことを「上洛」と呼んだりするようになりました。


坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)初の征夷大将軍に

この頃、東北地方で反抗するヤツらをこらしめよう!っということで、桓武天皇は、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)を、征夷大将軍として出征させました。東北の人々は夷(えびす)と呼ばれていて、「夷」を征服するから「征夷大将軍」という肩書きをもらったんですねー。

坂上田村麻呂は模範的な武将だったので、以後も「征夷大将軍」という肩書きは最高職として続きます。坂上田村麻呂は、もともと渡来人で坂上家は代々武人の家柄。身長は180センチ、胸の厚さは36センチ。眼光鋭く、赤ら顔で金色の付け髭をつけてました。

怒れば獣もひれ伏し、笑えば赤ちゃんもなつくという容貌。で、坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)はリーダーの「アテルイ」を攻め、とうとうやっつけました。で、アテルイは処刑されちゃいました。坂上田村麻呂(さかのうえたむらまろ)は、その後東北地方で名をはせました。

ちなみに、初の征夷大将軍として有名ですが、実は坂上田村麻呂の前に「征夷大将軍」の肩書きを貰った人がいました。大伴弟麻呂って人なんだけど、あまり活躍をしてなかったんで田村麻呂の方が有名になっちゃったみたいです。またこの頃の「征夷大将軍」は、戦いのあるたびにそのつど任命されるってもので、一度任命されたらされっぱなしってワケじゃないです。

※京都の清水寺はこの人が作ったといわれてます


最澄&空海 

この2人は、仏教を深く追求しようとした人です。奈良での仏教は、玄昉や道鏡が坊さんのくせに政治を口出ししまくって、そんなんじゃだめなんじゃないの?本当の仏教の教えじゃないんじゃないの?と思い始めました。そんな時、最澄は桓武天皇と出会う。

桓武天皇も奈良の坊さんが口うるさいのにうんざりしてたので、2人は意気投合。平安京を作ったら、本物の仏教を広めてくれ!とエールを送るのです。そして、桓武天皇は最澄に「遣唐使として中国へ行って勉強してきてくんない?」とお願い。

それを噂で聞いたのは空海。自分も中国へ行こう!と思い立ったのです。ということで、最澄は国のお金で遣唐使となり、空海は自分のお金でなんとか中国行きの船に乗ることができました。同じ年の船で行った2人。最澄も早めに切り上げ帰ってきて、空海は20年行く予定を2年ちょっとで帰ってきました。

空海は「学ぶモンは学んだし、もう中国でやることないわい」って感じで帰ってきたのです。先に帰国した最澄は、桓武天皇との約束どおり平安京の北東に比叡山延暦寺を建てました。対する空海は、高野山に金剛峰寺を建て新しい形の仏教を広めるたのです。


最澄と空海 険悪な仲に 

空海は、後の嵯峨天皇から、「高野山」は遠いので、もっと近くに来てくれ!とお願いされて、平安京に今も残る「東寺」を建てました。この2人がやった新しい仏教の形を簡単にまとめると、政治とは関係のない仏教をやろう!ってこと。

最澄は天台宗。が、教えを完成させず死ぬので弟子が後を継ぐ。道元・日蓮など

空海は真言宗。これは空海によって殆ど完成。最澄はこつこつまじめにやる秀才タイプで、空海は天才ひらめきタイプだった。この2人最初は、2人とも新宗教の展開ってコトでお互いを認め合ってたんだけど、次第に根本的な教えの違いのため仲は悪くなっていくのです。

というのも、最澄は帰国前「密教」を少しだけかじったのです。後に空海が「密教」の全てを授かって帰国したってことを知り(理趣経という密教の本を持ち帰ってきたらしい。)最澄はその本を貸してくれとお願いするんだけど、「教えは本を読んだだけじゃわからん!」とそれを拒否されたのです。7最澄はこのケチ!と激怒!!

さらに、最澄の弟子も空海の密教にはまりまくり、最澄を離れ空海に弟子入りしてしまったのです。これによって、最澄&空海の仲は決裂したのでありました。でもこの2人は新しい教えを広めたってことで、死後朝廷はこの2人の功績をたたえ、最澄に「伝教大師(でんぎょうだいし)」空海に「弘法大師(こうぼうだいし)」という名を送っりました。

「弘法も筆の誤り」ということわざはココから来てます。


806年 51代平城(へいぜい)天皇 

都を平安京に移した桓武天皇もとうとう806年に死去。早良皇子の後の皇太子となった桓武天皇の息子が33歳で51代平城天皇に。そして皇太子には12歳年下の弟である賀美能親王を皇太子に。

平城天皇は皇太子として12歳から33歳まで桓武天皇に仕えいてたため、なかなか政治をよくわかっている人でした。また父の桓武天皇と同じく、平城も藤原弐家と仲良しでした。藤原百川の息子 緒嗣は早々と参議に出世。


807年 伊予親王事件 

新天皇となった平城は意欲的に政治に取り組もうとしました。が、またもや事件が発生するのです。主役は伊予親王伊予親王は平城とは異母兄弟で、父は桓武ですが母が違いました。母は桓武時代に公卿トップの右大臣だった藤原是公の娘 吉子。この時吉子の兄の雄友(南家)は大納言だったので、伊予親王はエリートでした。

ある日吉子の兄 雄友のところに「藤原宗成(むねなり・弐家)が伊予親王に謀反を勧めてます」と密告がくるのです。雄友はビックリ!これが本当なら、自分にも害が及んでしまう!焦った雄友はとりあえず藤原内麻呂(北家)に相談し、伊予親王に話を聞くことに。伊予親王は「確かに宗成は謀反を勧めてきたけど、ボクそんな気全然ないし」てことで急遽藤原宗成を尋問することに。

が、宗成が「いいや伊予親王こそ謀反の首謀者です!」と言い出しちゃったから大変なことに。平城天皇はこれに激怒し、伊予親王の屋敷を包囲。吉子と伊予親王は幽閉され自害してしまいました。さらに宗成と雄友も流罪となってしまったのです。これにて藤原南家は藤原四家のトップレースから外れてしまい、残ったのは右大臣内麻呂のいる北家・そして百川の息子 緒嗣のいる弐家となるのです。


魔性の女 薬子に平城メロメロ!? 

平城天皇は藤原弐家で桓武天皇が可愛がっていた藤原種継の子である仲成と、妹の薬子をとても可愛がりました。薬子は同じ弐家の縄主(なわぬし)に嫁いで三男二女を産んでいました。そして長女が平城天皇が皇太子だった時に「夫人」となるのです。薬子はそれをきっかけに平城天皇と仲良しになるのです。

薬子は美人だったため、平城天皇は妻よりも妻の母である薬子を好きになってしまいました。嫁よりも義理のお母さんを大事にするように。父である桓武天皇は怒って薬子を宮から退けました。ですが桓武天皇が死ぬと、薬子と平城天皇は再びラブラブ(死語)に。公然とした愛人となるのです。

この時薬子40歳。さすがに人妻である薬子を妃や夫人とするわけにはいかないので「尚侍(ないしのかみ)」という天皇に仕える女官のボスに任命しました。そんな薬子の兄である仲成はというと、父の種継が暗殺されてしまったため出世が遅れていました。もし父が生きていたら出世できたのに!という欲が強く南家の雄友や同じ弐家の緒嗣らにライバル心をメラメラ燃やしているという状態でした。

そんな頃に妹の薬子が平城天皇と親密になって愛人となり後宮の権力を握るようになったのです。そして仲成は薬子の応援もありだんだんと出世してきたのです。ちなみに薬子の本当のダンナさんはほったらかし(^^;) 


809年 平城天皇 怨霊に悩み突然退位 

平城天皇というバックアップのもと力をつけてきた藤原仲成が、その平城天皇が突然天皇を辞めちゃうのです。理由は・・・「オレは父 桓武天皇と同じく早良親王の怨霊にとりつかれている!天皇やめれば災いからまぬがれることができる!」と言い出したのです。

当然薬子は天皇退位を大反対。ですが平城天皇は、早良親王と自分が罰した伊予親王の怨霊を異常に怖がってしまい、ノイローゼ状態に。とうとう弟の賀美能親王に皇位を譲るのです。そして52代 嵯峨天皇となりました。

皇太子には平城天皇の皇子高岳親王がなりました。嵯峨天皇は平城天皇に気を使いまくりながら政務をこなしていくのです。ちなみに嵯峨天皇が取り立てたのは藤原北家の面々。平城天皇は平城上皇となり、病気療養のため奈良の平城京へお引越し。薬子が看病することになるのです。


810年 日本のクレオパトラ 藤原薬子の変 

薬子のおかげかわからんが、平城京に療養中の平城上皇はだんだん元気になってきました。で、藤原薬子が「病気もだいぶよくなったんだから、また天皇やれば?」とささやいたのです。薬子は権力大好きなので、平城上皇が政治から引っ込んじゃったらおもしろくなかったのです。でも、すでに弟の嵯峨天皇がいるので、今更戻れない平城上皇は、「オレは上皇だ!これからはオレの言うことを聞け!」と命令を出し、嵯峨天皇をシカトし始めたのです。

そんな平城上皇&薬子のモトに、都が平安京に移っちゃったことによって権力を失いつつあったヤツらがどんどこと集まり始め、嵯峨天皇もこりゃやばいなーと思い始めました。そしてとうとう、810年に「都を平城京に遷都する」という詔を出したのです。これには嵯峨天皇もとうとう兵を出すことを決意!いよいよ上皇VS天皇の戦いが始まることに。また言い換えれば藤原弐家VS藤原北家の抗争にもなるのです。

嵯峨天皇は素早く動き、平城上皇側が兵を準備する隙も与えないまま、征夷大将軍の坂上田村麻呂を総大将とする討伐軍を出動させ、平城上皇側を鎮圧しました。これにより平城上皇は出家して坊さんに。薬子はもはやこれまでと、服毒自殺をしたのです。これに伴い、皇太子だった高岳親王は平城上皇の息子だったのでその座を下ろされました。新しい皇太子は異母弟の大伴親王。

ちなみに、この後の高岳親王は空海の弟子入りをするんだけど、やっと厳しい修行に耐えて高僧となり、インドへ行く途中に林から出てきた虎に襲われ食い殺されちゃいました。気の毒。この変の結果,薬子がでた藤原式家はおとろえてしまうことになります。代わりに出てきたのは藤原冬嗣らの北家。また、「薬子の変」は女性が介入した些細な事件ってわけじゃーありません。

これによって奈良から決別し、平安京および華やかな平安時代が始まることになるのです。「事件の陰に女あり」という言葉がまさにピッタリの「藤原薬子の変」でした。


子作り大好き 52代嵯峨天皇 

兄の平城上皇が反乱を起こしたのは、嵯峨天皇にとってはすごいショックでした。これからはこんなことがないようにと、天皇が命令したら即行動してくれる蔵人所(くろうどどころ)を作り、初代長官に藤原冬嗣を任命。さらに、平安京を守るガードマンの検非違使(けびいし)を作りました。

これで一安心した嵯峨天皇。幼い頃から好きだった漢文や書道にはまり、後の日本三筆の1人になります。

ちなみに後の2人は空海と橘逸勢(たちばなのはやなり)という人。橘逸勢は空海と一緒に唐へ行った人で、承和の変の首謀者とされちゃうお気の毒な人。


子作り頑張るゾー!源氏姓の誕生 

さらに嵯峨天皇は、せっせかと子作りに励みました。多くの妻を擁しまくったのであります。そして生まれた子供の人数はなんと50人以上!この人数からみても穏やかな時代が続いたことがわかります(^^;) 

あまりにも数が多いので、この中の30人くらいに「源氏」の性を与え家来の家にしたのです。というのも、この頃の天皇家の家来は殆どが藤原氏。嵯峨天皇も、何かしよーかなーと思った時に、全て藤原氏を通さないとダメだったので、自分の息子らを家来にして藤原氏を抑えようとしたのです。そして自分の娘を藤原氏に嫁がせました。

天皇の娘が臣下の家へ嫁いだのは初めてのこと。ちなみに嫁ぎ先は藤原冬嗣に次男良房のとこです(北家)嵯峨天皇の血を引く源氏(嵯峨源氏)は、めちゃくちゃ生命力が強くあまり早死にしないタチだったらしい。また子沢山家系だったので、後々大いに栄えました。


821年 藤原冬嗣 エリート養成学校「歓学院かんがくいん」を創立

藤原北家の冬嗣は若くして出世していく「源氏姓」を意識しまくっていました。このままだと「藤原氏」よりも「源氏」が偉くなっていくかもしれない・・・そう考えた冬嗣821年に「歓学院」という藤原一族のためだけのエリート養成学校を作ったのです。

学内では「先輩」「後輩」がちゃんとできて、昇進などの世話をやくようになっていき、官僚の多くがこの学校を出なければなれないようになっていくのです。ちなみにこの頃「学校」とは入学が13歳から16歳で誰でも入れるというわけじゃなかった。

入学資格があって五位以上の人の子孫じゃなきゃダメとか内容も勉強を教えてもらうというより、ただひたすら「暗記」教科書は中国の儒学の指導を書いてある経典で、論語とかを暗記するというものでした。テストもありました。

そして9年間勉強(暗記!?)し、卒業して始めて官史の試験を受けることができました。だけどがんばって9年間学校に行き、官史になれたとしても地位は「八位」一方もともと親がおえらいさんの子供には優遇制度があって、勉強できるできない関係なく最初っから「五位」貧乏人はつらいよ・・・。トホホ。


823年 53代 淳和(じゅんな)天皇 

天皇家のセキュリティアップに励んだ嵯峨天皇は、政治的なことは藤原冬嗣らにおまかせ。皇位にもあまり未練がなかったのか、14年間皇位についた後38歳にて皇位を譲りました。そして53代 淳和天皇が即位しました。

嵯峨はは上皇として政治に関わることに。元々、平城・嵯峨・淳和の3兄弟は仲良しだったんだけど、兄の平城を追い出しちゃった。嵯峨はせめて弟とは仲良くしたいと思い、息子ではなく弟に天皇を譲りました。

淳和天皇も、兄の嵯峨上皇の気持ちに答え、自分の時の皇太子には、嵯峨上皇の息子を皇太子に。嵯峨上皇がニラミを効かせてたので安定した政治を行ってました。で、833年に天皇を譲り54代 仁明(にんみょう)天皇が誕生。仁明天皇も、お返しにと淳和上皇の息子の恒貞親王を皇太子に任命。

大ボス嵯峨上皇の「みんな仲良くしろよ!」の命令にみんな素直に従ってました。が、840年にまず淳和上皇が死去。そして絶対的ボスの嵯峨上皇が842年57歳で死去と、立て続けに上皇2人が死んでしまい、平和だった天皇家に不穏な空気が出てくるように。


ドッキドキの恒貞親王

この時一番不安にさいなまれていたのは皇太子である恒貞親王でした。自分が皇太子になれたのは叔父である仁明天皇が淳和天皇の気持ちを考えてやってくれたこと。その淳和が死んでしまったらバックアップがなくなってしまう。

さらに仁明天皇の息子には今は亡き藤原冬嗣の娘 順子との間に生まれた道康親王がいる。ホントは自分の息子を皇太子にしたいだろうし、あの藤原氏が黙ってるはずがない・・・そんな中での淳和&嵯峨の死。恒貞親王はめちゃくちゃ不安だったのです。


 842年 承和の変(じょうわのへん) 

蔵人所頭として嵯峨上皇から信頼を受けてた藤原冬嗣の息子である良房は、こんな仲良し天皇家が前々からおもしろくありませんでした。で、嵯峨上皇が死んだのをいいことに、死んでから二日後早速動き出しました。恒貞親王の予感的中であります。

それは皇太子である恒貞親王(つねさだしんのう)が、謀反を起こしてるよ!っていう手紙を、嵯峨上皇の奥さんである嘉知子に出しちゃったのが始まりでした。嘉知子はというと、自分の孫である道康親王をホントは皇太子にしたかった。だけど嵯峨のせいでやったら天皇家が仲良しになっちゃって、順番こに皇位につけてたのが実はあまり気に入らなかったのです。

だからこの手紙をもらって超ヨロコビました♪藤原良房も、恒貞親王は藤原氏直系じゃないので、自分の妹の順子(じゅんし)が産んだ道康親王を皇太子にしたかった。

恒貞親王は皇太子なので、このまま何もしなくてもすーんなり天皇になれるのでわざわざ謀反を起こす必要がないっていうのに、このでっちあげによって無理やり皇太子の座から引きずりおろされてしまい、出家させられちゃいました。

この一連の出来事が承和の変そして藤原一族の陰謀の血を受け継ぐ良房のデビューであります。


稀代の謀略家 藤原良房

良房は不比等の次男・房前(ふささき)の流れである藤原北家であります。日本で始めて天皇の娘をもらった臣下です。承和の変のときはまだ大納言。この時の左大臣は弐家の藤原緒嗣でした。そして右大臣には源常。源氏代表のホープでした。

自分が公卿のトップとなるには天皇の外戚となって権力を保持するしかない!良房は野望に燃えるのでした。まず恒貞親王を皇太子の座から降ろし、妹が産んだ道康親王を後釜にすえました。だけど肝心の道康親王はすでに妻を娶っており、惟喬親王(これたか)をはじめ三人も子供を持っており、しかも惟喬親王をめちゃくちゃ可愛がっていました。

良房はそれじゃオレの野望は達成されないぜ!と、自分の娘の明子(あきらけいこ)を道康親王に嫁がせました。そして明子はめでたく男の子を産むのです。これが惟仁親王(これひと)その後良房は右大臣となるのです。そんな頃、仁明天皇が病気で死去。41歳でした。


850年 55代 文徳(もんとく)天皇 

承和の変の後、恒貞親王に代わって皇太子になった道康親王は850年24歳の時にに55代文徳天皇として即位した。バックアップはもちろん藤原良房。藤原良房は藤原不比等以来のキレ者で、藤原氏の地位を確立していく。

文徳天皇の叔父さんである良房は、親戚ってのを武器に若い文徳天皇を操りまくるように。手始めに明子が産んだ惟仁親王をまだ9ヶ月だというのに「皇太子」にしちゃいました。文徳天皇は7歳になる第一皇子惟喬(これたか)親王を皇太子にしたかったのに、現在ノリノリの良房に逆らえるはずもなかった。そして公卿トップの源常が死去。

良房が左大臣かと思いきやそれを飛び越えて太政大臣となったのです!平安京に移ってから初めての太政大臣でありました。良房54歳。天智天皇時代の大友皇子と、持統天皇時代の高市皇子につぐ三人目で「藤原姓」では始めての快挙。いよいよ藤原全盛期のスタートとなるのです。


絶世の美女 小野小町

世界三大美女と言われてる小野小町。といっても、世界三大美女に小野小町を入れてるのは日本人だけと言われてます。出生は不明なんですが、惟喬親王が皇太子になれなかった頃から田舎に移り住んだと言われてます。また、「あまりにも美しいので肖像画として絵に描けない」と言われたため、後姿の絵が多いらしいです。

平安時代初期の代表的な女流歌人で、数多くの男性から求愛されたんだけど、一生独身のまま過ごしたらしいです。中でも熱心だったのは四位深草少将で、100日通ったけどダメだったらしい。が、これはホントの話じゃないみたい。死んだのは92歳ごろと言われてる謎の美女でした。

代表的な歌は

花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに.思いつつ 寝ればや人の 見えつらん 夢と知りせば 醒めざらましを


女性のファッション 十二単&厚化粧 

平安時代の女性ファッションといえば十二単。これはもー重ね着しまくり。多いときは20枚にもなったらしいです。そして衣装の重さは10キロ・・・。大変だよね。

何でこんなに着込んでんの?その理由はさまざまです。まず宮廷内で女性達が他の女に負けまい!と衣装を競い合った結果こんなに膨らんでしまったとか。さらにこの時代は寒い!布団も綿が入ってない!なので男の人がやってきた時に即席ベッドとなったのです。とはいえ平安後期にはさすがに歩きづらいというので、5枚くらいになりました。

ついでにお化粧について。この頃になると後継ぎは男!となってきたので女性の地位は低下しまくった。そのため父や夫に頼って生きてくしかなかったのです。

貴族の女性は外に出ちゃいけなくなり男性が通ってくるのを待つだけ。夜の家の中はあかりもあまりない時代なので真っ暗。いかに薄暗い中でいかに自分をキレイに見せるかがポイントとなってきたのです。結果「透き通るような白い肌」が美の基準になってきました。

女性たちは顔の白さを強調するためにおしろいを塗りたくり、また白さを強調するためにお歯黒といって歯を黒くした。さらに鼻が低いほど美人とされていたので、鼻の周りには頬紅をつけ鼻の周囲を紅くしました。さらにさらに白塗りのノリを良くするために眉毛も抜いたのです。

すると笑うと顔がパキっと割れる平安美人の出来上がり♪というか想像すると怖いよね・・・。


858年 ちびっこ天皇 56代清和天皇

857年2月に臣下で初めて太政大臣となった良房は朝廷を完全に支配していました。そして858年に文徳天皇が32歳の若さで急死してしまうのです。良房は予定通り惟仁親王を天皇に即位させました。9歳のちびっ子天皇 清和天皇の誕生です。

いままでの最年少天皇は15才の文武天皇。9歳の天皇の誕生は異常なことでした。また清和天皇はずっと藤原氏の家で育てられていたので、天皇家の皇子というよりは藤原氏の息子といった感じ。しかも太政大臣良房は、清和が皇太子だった時に9歳年上の姪である高子(たかいこ)を嫁がせました。

高子は良房の兄 長良(ながら)の娘でした。またプレイボーイで有名だった在原業平とも付き合っていたという女性。ですが良房は明子以外に娘がいなかったため、高子を無理やり清和と結婚させたのです。そして良房念願の清和天皇誕生9歳なので実質的な政務などできるわけもなく、必然的に太政大臣である良房が政務を代行することになるのです。


平安一の色男 在原業平(ありわらのなりひら) 

平安時代最強のプレイボーイと言われている在原業平血統も平城天皇の孫なのでお墨付き♪美男子で和歌も上手手をつけたお相手は上流貴族の娘から、身分の低い女性まで数知れず。特に在原業平は果敢にも(?)超一流の身分の高い女性や人妻に挑んだと言われてますそんな中で有名なのが、清和天皇の奥さんとなった「高子(たかいこ)」です。

結婚前の高子は深窓のお嬢様それに目をつけた業平は、高子に猛アタック!そして2人は駆け落ちしてしまったのです。藤原家は大パニック。家族総出で探し出し、無理やり2人を別れさせました。後に生まれる陽成天皇も「在原業平の子なんじゃないのー?」というウワサもちらほら。この在原業平を主人公として書かれたのが「伊勢物語」です。


866年 応天門の変 

清和天皇が17歳の時、大内裏(天皇の住居があるとこ)の応天門が火事になるという事件が発生。放火の疑いがあり誰が犯人だ??とみんなで噂しあいました。それから二ヶ月 事件は思わぬ方向に発展しました。この時右兵衛の舎人が、応天門が焼けた直前に門の前から伴善男が駆け出してきたのを見ちゃった。と言って来たのです。

伴善男は無実を叫び続けたんだけど、犯人は伴善男ということになってしまい、処分を受けて伊豆に流されてしまった。でも、実際ホントにやったのかどうかは不明。伴家は昔からの名氏族・大伴家の末裔で、大伴一族においては最後に中央政治 に関わっていた家でした。この事件で失脚してしまった為、以後大伴家は歴史の表舞台から消えてしまいました。

これによって一番ラッキーだったのは良房。昔からの政敵が消えてくれたのでありました。17歳の清和天皇はというと、じーちゃんの良房を家来として初めて「摂政」に任命。もう火事だなんだでめんどくさくなっちゃったらしい。


872年 藤原良房死去

家臣として初めて「摂政」に上り詰めた良房。もー政治は思いのまま。高子を清和天皇に無理やり嫁がせてすぐに、念願の男児を産んでくれました。もー良房大喜び♪まだ3ヶ月だってのに貞明(さだあきら)親王を皇太子にしちゃいました。

ですが良房自身には子供があまりできず、後継ぎがいないため、兄の息子を養子にもらいました。養子の名前は基経(もとつね)基経は義父の七光りで異例のスピード出世をし、37歳で右大臣になったのです。

左大臣には源融(みなもととおる)がいました。そんな良房872年、皇太子が5歳の時に死去。これからの藤原家の摂関政治の基礎を作った良房でした。


876年 57代 陽成(ようぜい)天皇

清和天皇は兄が3人いたけど、それらを押しのけて天皇になっちゃったことをいつも考え込んでいました。天皇になってからも良房に操られまくっていたし、嫌気が差していたってのもあります。そして清和天皇も、じーちゃんの良房が死んじゃったのでもういいだろ?ってことでまだ27歳だっつーのに、基経に後はよろしく!と言って息子に天皇を譲っちゃった。

これが57代  陽成(ようぜい)天皇 まだ9歳のちびっこでした。基経は陽成天皇がまだ9歳なので、こりゃーオレッチが権力を握る大チャンスとうっしっし状態でした。現に清和天皇も、基経に「陽成の面倒みるように!」とお願いしたのでした。基経の摂関政治の始まりです。


883年 内裏で殺人事件が起きる!

ちびっこだった陽成天皇も15歳となり元服しました。が、突然基経が「オレは摂政を辞める」と言い出したのです。そして朝廷への出仕をサボり始めたのです。理由はわからないんだけど、どうやら大きくなってきた陽成天皇と気が合わなかったらしい。陽成は性格が野蛮だったらしい。

そしてとうとう陽成17歳の時に事件が起きてしまいました。883年11月に源益という陽成の乳母の子供が、殴り殺されるという事件が発生。内裏の内部だったことから、「野蛮な性格の陽成天皇が犯人じゃ・・・?」という噂が。

基経はこんな危険なヤツに天皇やらせたら、でかくなった時やばいんじゃないのか??と、無言の圧力で陽成天皇を攻撃。陽成はというと、天皇辞めたくなかったけど天皇としての器がないと皆思っていたので誰も味方がいない。とうとう「病気のため」という理由で自ら天皇を辞めると言うことになったのです。


884年 58代光考天皇

陽成天皇が退位した後、誰を天皇にするかで朝廷は話題蒼然。またちびっこ天皇をたてて藤原摂関政治するんじゃないのぉ?と皆は読んでいました。が、さすがに公卿トップの基経でも対抗勢力の源氏の目がうるさいので勝手に決めるわけにもいかなかった。

そこで基経が目をつけたのは55歳の時康親王。時康親王は仁明天皇の息子で、性格温厚で人望が厚かった。ここは自分の権力維持よりも、好人物を天皇にして王座の安泰をはかるか・・と考えたのです。

そして58代光考天皇を即位させました。ちなみに陽成天皇は、辞めてから65年間「上皇」としてい続けるんだけど、「清和源氏」の祖は陽成天皇と言われています。なのでほんとは「陽成源氏」になるんだけど、暴虐な祖は恥ずかしいっつー源頼朝によってひとつ繰り上げて清和天皇を祖にしたと言われてます。ほんとかどーかわかんないけどね。


基経 フィーバー中

仁明天皇の第三皇子だった光考天皇は、55歳になるまで皇位から全く関係ない人だったためのんびり穏やかな人でした。基経によって突然天皇にされちゃったんだけど、野心は全くなく政務を基経にオマカセしちゃいました。即位の翌年、基経の息子 時平が16歳となり元服が行われた時、天皇自らが加冠の約を務めました。どっちが偉いんだかわかんないくらい藤原氏がえばっていました。即位してから2年半。57歳の光考天皇はさっそく病気に。


887年 59代宇多天皇 藤原基経「関白」に! 

光考天皇はあっけなく死んでしまいました。光考天皇は生前 次期天皇には第七子の源定省にしたいと思っていました。それを基経が察知して死ぬ間際に皇太子に任命したのです。そして光考天皇が死ぬと21歳の宇多天皇が誕生したのであります。

宇多天皇は天皇レースに関係ないとされてたので、一度「源氏」姓をもらったいわゆる「家臣」だった。が、突然おとーさんが天皇になっちゃって、自分も天皇になれちゃったもんだから基経に大感謝してた。このあたりから藤原氏の方が天皇家よりえばるようになっちゃった。

で、基経に大感謝してたんで、「摂政」にしてあげたいなーと思ってたんだけど、もともと「摂政」は、天皇が女性もしくはちびっ子の時に置く役職なので光考天皇も宇多天皇も立派な成人男子だったから、「摂政」にしてあげることができなかった。じゃあ、「摂政」と同じ権限を持つ役職をつくろうよ!ってことで「関白」という役職を作った。


887年 阿衡の紛議(あこうのふんぎ) 

で、宇多天皇は藤原基経を「関白」に任命しようとしたんだけど、この時文章を書いた橘広相が「関白」のことを「阿衡」と表現したのです。基経は日頃から宇多天皇に重宝されている橘広相が嫌いだったので、この詔にイチャモンをつけまくり、政務を半年間ボイコットしてしまったのです。

焦った宇多天皇は基経に謝り、橘広相は罰されるということに。つまり、天皇家の人間が家臣である藤原氏に屈する形になってしまったのでありました。この基経の半年間のボイコットを隙のない理論でなだめたのが菅原道真(すがわらのみちざね)だったのです。 

宇多天皇 藤原が疎ましくなる・・・ 宇多天皇は、だんだんイチャモンばっかつけて口うるさい基経がうざくなってきました。あいつどーにかなんないかなーと思ってる最中に、基経がうまいこと死んでくれたのです。(891年)大喜びの宇多天皇。もう藤原氏はこりごり・・・と、藤原以外の人間で周りを固めていくように。

基経の後釜は息子の時平(ときひら)まだ21歳だったので、いまいち政治慣れしてなかった。また、天皇家に嫁がすお嫁さん候補もいなくって、一時的に藤原氏の力が弱まっていったのです。宇多天皇にとっては、まさに天皇政治の絶好のチャンスだったのです。

ですがやっぱり基経の息子 時平を無視することはできませんでした。そこでまず時平を参議にすると同時に源氏を参議に起用しました。893年には時平が自分の娘をオレんとこに嫁がす前に・・・と9歳の息子敦仁親王を皇太子にしちゃいました。

これで時平は外戚の座を封じられたのです。この時の太政執政官の顔ぶれは藤原氏7人源氏6人菅原氏1人。藤原氏のトップは冬嗣の子で良房の弟である良世。宇多天皇は摂関家の長子でる時平を一応は立てていました。


894年 遣唐使廃止 菅原道真デビュー 

ここに飛び出してきたのは菅原道真。菅原氏は代々学者として朝廷に仕えた家柄。菅原道真は、とっても頭が良く、阿衡の紛議の時に基経をうまくなだめてくれたことによって宇多天皇から絶大な信頼を得ました。さらに、教養がありながら野心もないので宇多天皇の超お気に入りに。

道真は学者として朝廷に仕えてるんだけど異例のスピード出世をしたお利口さん。なので、同じ学者仲間から妬みを受けることに。菅原氏は私塾「菅家廊下(かんけろうか)」というのを持っていて、今の大学でいうと東大レベル。

道真は36歳の時、父が死んでしまいこの私塾の理事長になっちゃった。これにより、妬み&嫉妬に拍車をかけまくり、とうとう陰謀にはまり左遷されちゃう。が、「阿衡の紛議」で、学者としての使命感から口を出してしまう。

これも、「左遷された田舎者が何言っとんじゃ?」と学者仲間からはバカにされるが、宇多天皇がこの道真の行為にカンゲキし、道真を左遷先から京に呼び戻した。で、その後宇多天皇の下でトントン拍子に出世。周りからは羨望&嫉妬の的に。

宇多天皇はというと、賢い道真に藤原氏の対抗馬になってほしかった。で、道真は娘を宇多天皇の女御と、斉世親王のお嫁さんにしちゃいました。宇多天皇は、菅原道真に「もっともっと勉強してくれ!!」と遣唐使として中国へ派遣しようとしたんだけど、道真は「私は学問を極めたので、唐に行って学ぶことなど何もない!それより、唐にいつまでも行ってると、船が難破したりして私のよーな優秀な人間がどんどん死んでしまうかもしれないので、そろそろ遣唐使やめたら?」と意見。

これに宇多天皇も納得して、とうとう894年にいい人材確保のため遣唐使を廃止しました。ちなみに、遣唐使を廃止した894年の13年後に唐は滅んだ。先見の目があったのかもね


897年 60代 醍醐天皇 

宇多天皇は菅原道真を信頼しまくりました。藤原氏が嫌いだったので何かと道真に相談しまくり。2人ともどちらかというと文学肌だったので性格もピッタリ♪そして道真は娘を後宮にいれてとっても仲良しに。そんな宇多天皇が突然13歳の息子に皇位を譲ってしまったのです。

ここに13歳の60代醍醐天皇が誕生。即位少し前に藤原時平が公卿トップの座になったんだけど、宇多天皇は時平と正面きってバトルするのがイヤだった。自由気ままに暮らしたかったので、その役割を道真に押し付けた形となったのです。

13歳ってことで、宇多天皇は「道真の言うことちゃんと聞きなさいよ」と、その他細かい点を指示しました。これが寛平の御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)醍醐天皇も、言いつけどおり菅原道真を重宝しました。だけど、基経の息子・藤原時平も無視できないので、道真を右大臣・時平を左大臣として、2人を出世させたのです。


901年 菅原道真追放!時平クーデターを仕掛ける 

道真は、自分と藤原時平の2人で力をあわせて、この幼い天皇をバックアップしよう!と思ってました。が、藤原時平は「冗談じゃねーぜ!オレッチは藤原氏だぜ??ポっと出のヤツと協力なんかできるか!?」と、道真を失脚させる計画を立てはじめたのです。

また、同じ学者仲間らからも「学者のくせに政治家になるとは何事じゃ!学者は学者らしくしろ!右大臣辞職しろ!」と妬み攻撃が始まりました。で、藤原氏のお家芸である謀略がスタートしたのです。醍醐天皇に「道真が天皇の座を引き摺り下ろして、自分の身内から天皇を出そうとしてますよ」と、デタラメを話しちゃう。

この頃って、もう「言ったモン勝ち」みたいな感じで、よくよく調べずにいる時代だったんですねー。醍醐天皇も、あまりにも道真が宇多天皇に重宝されすぎてたのが実は内心おもろしろくなかったってのもある。この時平によって追い落とされた事件を「昌泰(しょうたい)の変」という。

これによって、道真は九州の大宰府に飛ばされてしまったのです。そして道真の後の右大臣には源光を抜擢。時平の道真追放クーデターは簡単に成功してしまったのでした。5日後にこれを聞いた宇多法皇。慌てて処分停止を要請しに醍醐天皇のもとへ駆けつけましたが、警備員(衛士えじ)にさえぎられ内裏に入れてもらえなかった。

宇多法皇は一晩中待ってたんだけど、とうとう中に入れてもらえなかったのです。そして宇多法皇が宮中から引き上げてすぐに、菅原道真は傷ついた馬と壊れかけた船に乗らされ大宰府へ飛ばされたのでした。

大宰府では仕事も給料もろくに貰えず、家は床が腐っており屋根は雨漏りするという悲惨な生活。幽閉のような毎日を送り帰京の命令が来るのを待ち焦がれながら、失意の中2年後の93年2月に59歳で死亡したのです。


時平権力回復に動く! 

ライバル道真のいなくなった時平は、藤原氏の権力を回復するべく動き出しました。まずちびっ子天皇の醍醐を味方に引き入れました。そして時平の娘の穏子(おんし)を醍醐のとこに嫁がせました。そして902年11月に醍醐天皇の第二皇子を出産。これが宗象(むなかた)親王。

時平はさっそく赤ちゃんの宗象親王を皇太子にしちゃったのです。でも醍醐天皇は、藤原時平を摂政・関白にせず自分の政治をやろうとしました。お父さん(宇多天皇)が、基経(時平の父)に感謝して、関白にしようとしたっつーのにグチグチとうるさいのを知ってて、「ボクはうるさく言われんのイヤだからなー」と思ってたのです。


902年 醍醐天皇の政治 荘園の整理 

醍醐天皇がやったことで特に重要だったのは、増えてきた荘園を整理した延喜の荘園整理号。まぁ醍醐天皇ってより時平がやったみたいなもんだけどね。荘園とは、「税金が取られない個人の土地」=私有地の免税地のこと。平安時代の貴族(主に藤原氏)が、ガンガン荘園を増やした。

こんな免税地ばっか増えたら税金がとれなくて、朝廷はビンボーになっちゃうので荘園を整理して国の土地を増やして、お金を確保しようとしたのです。


菅原道真の祟りじゃー 

ところが909年4月 時平が突然病気となり39歳の若さで死んでしまったのです。しかも前年には道真の左遷を阻止しようとした宇多天皇を阻止した警備員(衛士)が死亡!さらに疫病が大流行し、凶作が続くようになったのです。

また道真の後に右大臣の座についた源光が狩の途中泥沼に落ちて死亡。さらに宗象親王までもが21歳の若さで急死!道真追放に絡んだ人たちが次々と死に朝廷内では「道真のタタリ??」と恐れだしました。時平の後を継いだのは弟の忠平(ただひら)源光が死んだ後右大臣になっていました。

そして宗象親王が死んでしまったので、すぐにその息子の慶頼王(よしより)を皇太子に置いたのです。この時3歳。ですがこの慶頼王も2年後死んじゃったのです。そこで醍醐天皇は忠平の妹の産んだ11皇子の寛明(ひろあきら)親王を皇太子に。

が、まだ道真のタタリは終わっていませんでした・・・・929年には大型台風がやってきて溺死者が続出!翌年には雨が全然降らず日照り続き。朝廷では忠平ら公卿が集まり緊急会議!ところが!!午後一時ごろ突然暗雲がやってきて、なんと会議中の清涼殿に雷が落ちちゃったのです。

大納言藤原清貫が真っ黒こげになって死亡!他にも死者&火傷が続出となったのです。もうこれには朝廷大パニック!醍醐天皇はショックで寝込んでしまい、ついに皇位を譲ると言いだしました。

そして8歳の息子に皇位をゆずった7日後に死んでしまったのです。このタタリをなくすには、道真を祭ろうってことになって京都の北野天満宮や、九州の太宰府天満宮ができました。今でも受験生が頭のいい道真にあやかろう!ってお参りに行くトコ。後に「学問の神様」になっちゃった。ちなみに、苗字の「菅」をとって「菅公(かんこう)」と呼ばれていました。カンコー学生服はここからとってます。


不輸・不入の権とは?? 

この時代でいう土地とは「田んぼ・畑」のこと。田んぼや畑じゃなければ「土地」にはならないんだけど、有力者らは自分の土地を「これは田んぼじゃありませーん。私の庭です」とか「これは畑じゃありませーん。家庭菜園してるんデス」とか明らかに田んぼや畑でも、ウソが通用した。

なぜそんなのが通用したの??というと、この頃の有力者は殆ど藤原氏。で、お偉いさんも殆ど藤原氏。法律作るのも藤原氏。つまり、藤原氏が自分達の利益のために「荘園」というアホな免税地を認めちゃった。

この堂々と脱税できるシステムを「不輸の権(ふゆのけん)」という。さらに、不輸の権の後に、勝手にオレラの荘園に立ち入るな!という「不入の権(ふにゅう)」も作っちゃった

大化の改新の後、土地は「国」の物って決まったんだけど、その後奈良時代になって三世一身の法や墾田永年私財法によって私有地を認めちゃったので、これをうまーく利用して免税地にしちゃった藤原氏。

で、自分達の都合のいいコトばっかやってる藤原氏にちょっとストップかけよ・・・と思って、醍醐天皇は荘園を整理しようとしたんだけど、この荘園整理号を実行に移したのは、当時のお偉いさん藤原時平ら藤原一族だったのであまり効果なし。まぁ、成果はなくても頑張って整理しようとしたっていのは認められこの醍醐天皇の政策は「延喜(えんぎ)の治」と呼ばれる

ちなみに、「荘園」とういのは、歴史が長くって色んなパターンがありホントはもーーーっと複雑。


905年 紀貫之が「古今和歌集」をまとめる 

遣唐使を廃止したことにより、日本風の文化が急速に発達しました。平安初期は唐風文化がブレイクしてたけど、今回は日本独自の優雅で細やかな貴族文化に。服装なんかも十二単など豪華に。

で、男女ともに「ひらがな」を使って和歌を詠むのがブームに。公式文書は漢字で、かな文字は「女文字」と言われてて、男子が使うもんじゃなったとされてたんだけどね。ひらがなによって、自分の気持ちが自由に表現できるようになった。

で、醍醐天皇は藤原時平に命令して優れた和歌を集め編集させました。これに選ばれたのが紀貫之ら。で、905年に「古今和歌集」が完成したのです。紀貫之はそのほかに「土佐日記」もあるよ。

ちなみに、日本で一番古いかな文字の物語は「竹取物語」


930年9月  61代 朱雀天皇 

道真タタリでショックで寝込んだ醍醐天皇は息子に皇位を譲りました。これが61代 朱雀天皇。まだ8歳と朱雀はちびっ子なので、時平の弟の藤原忠平が「摂政」になりました。藤原氏は再び摂関家の地位を取り戻したのです。

ちなみにこの頃は藤原時平・忠平・仲平の3人兄弟が仕切ってて「三平」と言われてました。時平は死んじゃったけどね。で、朱雀天皇が即位してすぐに醍醐・宇多の両上皇が相次いで死んでしまい後ろ盾のなくなった朱雀天皇。実権は藤原忠平が握っちゃいました。

この頃の公卿はというと摂政忠平を筆頭に全閣僚15人のうち11人が藤原氏。平氏が2人。源氏1人。橘氏1人でした。

ダントツの権力は忠平の家。長子実頼は32歳の若さで参議となっていました。で、この忠平の家臣に「平将門(たいらのまさかど)」という男がいたのです・・・・・。

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